国宝 雲龍山勝興寺

勝興寺の歴史

勝興寺

「 本堂 」

勝興寺/大広間・式台「 大広間及び式台 」本願寺八世蓮如上人が、文明3年(1471年)越中の布教の拠点として、砺波郡蟹谷庄土山(現在の南砺市福光土山)に土山御坊を開き、蓮如の子孫が代々住職を務めました。本願寺が門跡に任ぜられると他の寺院とともに院家に任ぜられるなど、真宗王国越中における代表的寺院であると同時に、本願寺を支える連枝寺院の一つとして重要な働きをなしてきました。

永正14年(1517年)寺号を本山に申請したところ、佐渡にあって廃絶していた順徳上皇勅願所「殊勝請願 興行寺」を再興相続して、勝興寺と称することを認められました。その後、戦国時代には、越中一向一揆の旗頭として活躍し、越前朝倉氏、甲斐武田氏をはじめとする戦国大名や、本願寺、京都公家などと関係を深めていくようになります。当時の複雑な政治情勢の中で、二度の移転を経た後、天正12年(1584年)に現在地の高岡市伏木古国府に移り、藩政時代に入ると加賀藩前田家と関係を深めるようになり、越中における浄土真宗の触頭として、近代に至るまで繁栄しました。

約30,000㎡の広大な境内地は、勝興寺がこの地に移ってきた時と変わりありません。伽藍は江戸時代に建立された建造物で構成され、近現代の構造物はほとんど存在しないため、境内は江戸時代そのものの景観が維持されています。これらの江戸時代の建造物のうち12棟が重要文化財に指定されていましたが、200年から370年が経過し損傷、破損が著しい状態であったため、平成10年(1998)から令和3年まで23か年を費やした大修理が行われ、江戸時代の壮麗な伽藍が蘇りました。

そして令和4年12月に「本堂」と「大広間及び式台」の2棟が国宝に昇格指定となり、国宝2棟と重要文化財が10棟となりました。中でも国宝の本堂は、勝興寺の住職から還俗して加賀藩第11代当主となった前田治脩の支援や門徒の寄進により、西本願寺の阿弥陀堂を模して寛政7年(1795)に建立された浄土真宗を代表する大型の木造建築物です。また、境内地は奈良時代に越中国府の所在地であったとされており、万葉集の編者である大伴家持が5年間この地に赴任し、越中の自然と風土を詠んだ多くの秀歌を万葉集に残しています。