本屏風は、百双以上知られる洛中洛外図屏風の中でも、町田家本(国立歴史民俗博物館蔵)、上杉家本(米沢市博物館蔵)などに次いて、制作年代が6番目に古く、特に二条城が描かれた一双屏風としては、最も古い。この点が、平成6年の重要文化財としての指定理由となった。
向かって右隻(一双屏風の片方)には、豊臣秀吉が創建し、慶長17年(1612)に秀頼が再建した方広寺、そして御所が大きく描かれる。左隻には、徳川政権の権力の象徴である二条城の偉容が大きく描かれている。その左には、洛中堀川七条に還住した本願寺が大きく描かれている。大坂の陣前後の政治的な緊張関係がそのまま写し取られたかのような構図である。そのほか、伏見城、三十三間堂、清水寺、八坂の塔、鴨川、吉田社、鞍馬、賀茂社、北野神社、金閣寺、嵐山などの名所とともに、祇園祭りや雪景色など四季の風物が細やかに描かれている。
また、勝興寺本には権力者の居城や大寺院のみならず、市井の営みも当時のままに描かれている。例えば、三条通り東端に瀬戸物屋(焼物商)が描かれているが、平成元年、京都市中京区三条通柳馬場東入ルの発掘によって、描かれた店が実在したことが裏付けられた。出土品は、慶長末年当時に制作の始まった志野、織部などの美濃陶を含む桃山陶器であった。洛中洛外は、平安時代以来の月次絵や四季絵と名所絵とが、室町時代後半に結びついて成立した画題で、武家政権と深く関係した狩野派が得意としたジャンルである。本屏風の筆者も、狩野永徳(1543~90)次男の孝信(1571~1618)か、その周辺の絵師と目されている。ちなみに、狩野孝信の夫人・養秀院は、天正9年(1581)富山城主となった佐々成政(1516~88)の娘である。
17世紀初頭の京都の様子をうつしとったかのような本屏風が勝興寺に伝来するのは、江戸時代後期、鷹司政熙(1761~1840)の娘の一人が、勝興寺第二十代住職本成(~1834)に嫁した際、嫁入り道具として持参したからと伝えられている。本成の室は、法名・蓮生院廣悟といい、慶応3年(1867)に没している。